史跡旅(河南省編)「封神演義の舞台を巡る」

2016/01/15 00:00

中国史跡をめぐる旅と書きつつ風景ブログばかり綴る「史跡巡ります詐欺」状態だったんで
列車旅の途中で無理やりぶっこむ。
去年の旅も普通に素敵な旅だけど俺からすると
5年旅してきて史跡行き過ぎてネタ切れして始めた苦し紛れツアーやったから
これが俺の旅のスタイルと思ってもらっても困るっっっ!
とかいいつつ、司馬遷が史記の列伝の冒頭に伯夷列伝を置いてロジックを示したようにやっぱ一発目は大切。
んで河南省は新郷市。
2011年に初めて大陸全体を旅した時に来た。
今思い返しても面白さがギュッと詰まったエリア。
クソマイナーと知りつつ
あえてここを一発目にぶっこみたい!!!
退かぬ!媚びぬ!!省みぬ!!!

河南省新郷市は河南省の省都鄭州の北隣で鄭州のバス北駅から定期便が30分おきくらいに出ていて1時間程度で着く。
鄭州というと中国の交通の要所で河南省の省都で交通はとても便利なのでまずここを経由していく。

新郷駅!!!ちいさっっっ
こっから北に5キロくらい行くと

河南師範大学がある!

毛さんがお出迎え!「お逝きなさい!」言うて!
なんでココに来たのかというと・・・
ここは新郷市は牧野区にある・・・そう、タイトルに封神演義って書いてるからそのままだけど
ここ周の武王と殷の紂王が戦った牧野の戦いのあった場所って言われてて
ある程度信頼性のある中国で最古の古戦場と言ってもいいと思う。(桀王と湯王の戦った鳴条の戦いは場所が諸説ある)

ただ、3000年以上昔の戦いってんで想像が難しい。
普通に校内ブラブラして帰った。
実はココは上海に来る前に咸陽師範学院と最後まで悩んだ留学先の最終候補やったんです(懐)
結局最後は上海金融学院に来たけどもしあの時ココに来てたら・・・今と全く違う人生があったんでしょうな・ω・

新郷市は結構いい思い出が残ってる。人は優しかったし田舎だけど道はキレイだったり。
ココを出て北に向かった。
河南省新郷市の北側衛輝市に今回の目的地がある。
比干廟!!!


その前にまず比干って誰?的なね。
殷の時代の宰相で最後の帝、甥に当たる紂王に仕えてた。
紂王は元々優秀な王様やったけど毒婦蘇妲己を妃として以降
残虐非道の暴君に豹変し、酒池肉林で酒と淫楽に溺れ
歯向かうものには炮烙[ホウラク]という残酷な刑(油を塗った銅の柱を日で炙りその上を歩かせて焼き殺す感じの刑)で殺したりしたげな。
それを止めさせようとしたのが比干で、3日座り込んで諫言したところ、逆に紂王の怒りを買って殺された。
「聖人の心臓には七つの穴があるらしいから見せてくれ聖人は死ぬこともあるまい」といって心臓をくり抜いて殺したらしい。
「一窍不通」って成語はこっから来てるらしい。
辞書で訳すと「ある事柄 について全く無知な人 」もしくは「ズブの素人」とかいう意味だけど
古代漢語では「窍」は穴の意味で、顔にある目耳鼻口の穴を足して「七窍」って言って
心臓にあるはずのない「七窍」を探した紂王を批判し、
彼の心が「通ってなかった」として七つどころか一つの穴でもあれば
あんなバカなことはしなかっただろうと孔子が揶揄したことからこの成語ができたんですねー。(タメになったねー)

自分の命をかけて義のために諫言した比干をリスペクトした殷の後の周の武王が
比干の墓を大きくして建てた廟がこの比干廟なんで中国でも最も由緒ある廟の1つと言っていいと思う。

んで息子の堅に林という姓を与えて保護したらしく現在の林姓の始祖って言われてる。
てことはリン・チーリンも比干の子孫!?
さんきゅー比干!さんきゅーな!

この林さんが華僑として世界中で活躍したおかげでここの廟も多くの寄付が集まって大きくなってる。

そういった背景もあってか現在では商売の神様として崇められ中国三大財神の一人とか言われとるげなよ。
自分が行った時も何組かのビジネスマンみたいな人が来てた。

歴史的な偉人も多く訪れている。メジャーどころで言うと乾隆帝とか孔子とか。

墓の前には孔子が剣で「比干之墓」と彫った石がある。


ココらへんのビッグネームが訪れている辺り比干の中国での歴史的な認知度が見てとれる。
孔子ってば紂王の兄微子啓か微仲衍の子孫って言われてるんで孔子も彼らの父帝乙の子孫!ってことは比干ってばご先祖様の弟?
殷の末裔でありながらそれを滅ぼした周の礼を学んで周公旦をガチリスペクト?複雑ー/(^o^)\
まー、俺いろんなお墓行ったけどここはぶっちぎりで素晴らしい。
お墓が立派とか敷地が広いとか綺麗とかじゃなくて
関羽と同じく財神として神格化されて信仰の対象にまでになってるのと
殷の宰相でありながら殷を倒した周の武王の勅命で建てられた廟で
後に拡張されながら歴代の皇帝なんかも参拝したこととかを考えると歴史的みてもにかなりスーパーだと思う。

この比干廟から更に北に行くと淇県って街がある。

またの名を「朝歌」紂王が暴虐の限りを尽くしそして牧野に敗れて帰った殷の王都。
紂王はここに摘星台って豪華な建物を建てたんだけどそこで比干の心臓を刳り抜いたって言われる。
なんで今では摘星台は別名「摘心台」って呼ばれてる(中国語ではxinとxingで似てるんでかけてるらしい)

今は公園になってる。

ここが噂の摘心台

市民の憩いのスポットになってた(笑)

公園内にある廟。

斜めでわかりにくいけど右が文王、中央が帝辛こと紂王、そして左が太公望姜子牙(爆)
聖人二人に挟まれて暴君紂王がまさかのセンターwwwちゅうおうだけに!!!(寒)


かーらーのー

中心地から離れて・・

来たのは・・・

紂王墓!!!

墓石がやけに立派!!!
っていうのも毛さんがえらくリスペクトしとったらしい。
紂王も始皇帝も曹操も暴君と言われる人は能力が優れすぎていて妬まれただけだ!げな。
紂王名君説は確かにある。後の武王が自分を正当化するために歴史をねじ曲げたげな言うて。
でも毛さんが言うとやたら噓臭いネ!!!

最後に紂王が火を付けて身を投げたって言われる「鹿台」が西の外れにあるってんで探してみたけどここは見つけれなかった・・・

ここの更に北に行くと武丁期の都として有名な世界遺産の殷墟もある。
封神演義ファンはもちろん中国古代史好きにはたまらんエリアだと思う!
書いてたらまた行きたくなってきた!!!
次行ったら絶対鹿台見つけたる!!!

河南省新郷市 − 衛輝市 − 淇県

コメント

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コメント*

2016/01/15 14:09

yone

旅より歴史の比率が高いかんなwww
長文で書くのパワーいるからボチボチやな(笑)

2016/01/15 00:59

諸葛健

いつも以上に記事がイキイキしとるなw
中国史語らせたら、サーバーパンクしそうやで笑
史跡ネタも期待しとるで〜